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第五章 贖罪と烙印④

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-19 16:37:27

 イーシュと二人、薄暗く寒い空間に取り残されたリスルは、レイモンが置いていってくれたコートを身を寄せ合って被った。腰を下ろした石の床は冷たく、臀部の熱を奪っていくが、ないよりはだいぶましだった。よい素材が使われているのか、外套が触れている部分はとても暖かかった。

 沈黙の中、この時間にも関わらず、神父に何事か相談に訪れる人々の足音や会話がどこか遠くから聞こえていた。

 リスルは寒さで白くなった吐息と共にその沈黙を破った。囁くように彼女は傍らの少年に問うた。

「イーシュは……自分の異能が怖い?」

 彼はこくりと頷くことで彼女の言葉を肯定した。

「そう……わたしも自分の力が怖かったわ。いいえ、今も怖い。けれどね、自分の力について知ることで、この力と折り合いをつけて付き合っていくことはできるわ」

「リスルさんは、リスルさん自身や俺の力について、何か知っているんですか?」

 イーシュが尋ねると、リスルは『悪魔の力』について調べたくてレシェールまで行ったことがあるのよ、と言った。イーシュは自分ではまずありえないその行動力に感服しつつも、顔を若干引きつらせながら、

「うわ……無茶しますね……。レシェールって教会の総本山があるところじゃないですか……教会に探されている身でそんなところに乗り込んでよく生きて帰ってこれましたね……」

「教会が探しているのは赤い髪と目の女だもの、巡礼者のふりをして堂々としていれば、案外気づかれないものよ」

「そうですか……」

 リスルの意外な豪胆さにイーシュは感心を通り越して呆れを覚える。

「話は戻るけれど、レシェールでわたしは、聖典の悪魔について研究している神学者から運良く資料を手に入れることができて、自分の力について知ることができたの」

 荷物を漁って資料を盗み出したことは伏せ、リスルは言葉を続ける。

「わたしの力は自然に宿る”モノ”の声を聞き、力を借りることができる《ヴィサス・ヴァルテン》と生命に関する奇跡を起こす《レーヴェン・スルス》。そして、あなたのその力は恐らく……鋼の雨を降らせる《アイゼン・メテオール》よ」

「《アイゼン・メテオール》……」

 イーシュは口の中で今耳にしたばかりのその言葉を繰り返し呟いた。耳馴染みのない言葉のはずなのに、何となくしっくりとくる響きだった。

「あなたの力は非常に攻撃性の高いものだわ。けれど、あなたが使い方を覚えさえすれば、何かを傷つける以外のことだってできるようになるかもしれない」

「使い方さえ、覚えれば……?」

 そうよ、とリスルは微笑んだ。

「近いうちに――わたしが生きていられるうちに、力の制御の仕方を教えるわ」

「生きていられるうちって……リスルさん……?」

 イーシュは怪訝そうな表情を浮かべる。リスルは、ああ言っていなかったわねと、

「《レーヴェン・スルス》の力を使って、誰かの命を救う度に、わたしの寿命は減っていくの。この力を使うには、わたしの生命力を代償として差し出さなければならない上に、誰かの身体を癒やし、生命の時を延ばすためには、代わりにわたしの寿命を分け与えないといけないから。ねえ、イーシュ。『聖女』の噂を耳にしたことはない?」

「死の淵に瀕した人々を救いながら国内を流離い歩く『聖女』……あれって、リスルさんのことだったんですか」

 そうみたい、とリスルは苦い顔で頷いた。異能で人を救って旅するうちに、気がつけばそのような大仰な異名と噂が各地で囁かれるようになっていた。

「どうして……リスルさんはそんなことができるんですか」

「わたしはただ、自分が教会のいうような危険な存在じゃないって証明したかっただけよ。悪魔の祝福を受けた眷属なんかじゃない、って。人のために力を使うことで、わたしたち異能者に向けられる意識が変わればいいって思った。わたしやあなたみたいに教会によって散々酷い目に遭わされてきた異能者はきっとたくさんいるし、これまでにそうして生命を散らしてしまった人はそれこそ数え切れないほどいる。異能者すべてを救うことは無理でも、わたしはせめてイーシュにはその力にも教会にも怯えることなく幸せに生きてほしい。いつかそんな日がくればいいってわたしは願っているわ」

 リスルの緑眼には切実な祈りが宿っていた。彼女のその真摯な言葉に、そんな未来があればいいと思わずにはいられない反面、それがただの甘く都合が良いだけの理想でしかないことをイーシュは知っていた。イーシュは煙水晶のような焦げ茶の双眸を伏せると呟く。

「そんなの……夢物語ですよ……」

「そうね。知ってる」

 リスルは頷いた。

「だけど、たとえ叶わないとしても夢や理想を語ることはきっと自由だから。だからわたしは……この先の未来を夢見ることをやめたくはないの」

 強く真っ直ぐな言葉にイーシュはどきりとした。自身の生命の終わりがすぐそこまで近づいてきているというのに、それでもなお、彼女は未来があることを信じていた。自分の現在ですら上手く受け入れられないでいるイーシュは、自身の小ささを恥じる。そして、彼女は綺麗だ、と思う。見た目の話だけではなく、心が美しく、どこまでも高潔なのだ。

 もうすぐ彼女がこの世を去ってしまうのだとしても、今しばらくの間、イーシュは彼女のそばにいてみたいと思った。こんな自分でも、彼女の近くにいることで、もしかしたら変わっていけるのではないかと思い始めていた。まずは彼女が先程言った通り、自分で異能を制御できるようになれれば、とイーシュは己の手を見る。冷えた手は悴んで赤くなっていて、イーシュは息を吹きかけた。白い息が暗闇に溶けて消えていく。

「寒いの?」

 そう聞くと、リスルはイーシュの手を掴んで引き寄せ、膝にかけたレイモンの上着の下へと突っ込んだ。その拍子にバランスを崩したイーシュは、キルティングの生地の下でうっかり柔らかく弾力のある何かに触れてしまって動揺した。リスルの太腿だった。

 イーシュの手を掴んだまま離してくれないリスルの柔らかくて滑らかな指の感触に、女の人なんだ、と改めて感じ、イーシュは意識のやり場に困る。繋いだままの手の感触に、服越しに密着する身体の甘い香り。緩くふんわりとした曲線を描く茶色の巻毛に白く美しい横顔。新緑を思わせる明るいグリーンの瞳に、ナチュラルなピンクベージュのリップが引かれた、少し荒れてはいるけれど柔らかそうな唇。途端にそういったものの一つ一つを意識してしまって、イーシュの心臓が鳴る。彼女を構成するその一つ一つをずっと眺めていたいような気もするのに、妙な考えが首をもたげてきそうな気がして直視できない。

 特に意に介したふうもないリスルに対し、イーシュが一人でどぎまぎしていると、階上でギィと音を立てて扉が開く音がした。誰かが石段を降りてくる。イーシュは我に返って、リスルから身体を離して距離を取る。身体に触れていた温もりが離れていく。

「……何をしているんですか?」

 呆れたような女の声が、もっと緊張感を持てとでも言わんばかりに冷ややかにそう言った。長い黒髪に菫色の双眸のシスター服の女の姿が、彼女の持つ手燭の灯りで浮かび上がっている。

「仲が良いのは結構なことですが、不埒な真似は控えてくださいね。もっとも、思春期の少年にはなかなか難しい相談かもしれませんが」

「……っ!」

 淡々としたアイリスの言葉に、イーシュは膝に顔を埋めた。耳が熱い。

「シスター・アイリス。あまりイーシュ君をいじめないでください。シスター・リスル、遅くなってすみません。仕事が一段落したので、食事と着替えをお持ちしました」

 アイリスの後ろから、ゆっくりと金髪碧眼の壮年の神父が石段を降りてきた。パンとシチューが乗った盆を手にしている。

「ありがとうございます。レイモン神父。あと、上着をお返ししておきますね。ありがとうございました」

「いえ、どういたしまして。そうだ、お食事の前にこれを」

 レイモンは貸していたキルティングコートをリスルから受け取ると、自分の法衣の胸元から小瓶を二つ取り出した。飲んでください、とレイモンはそれらをリスルとイーシュに渡す。

 リスルは小瓶の蓋を開け、中身を口にした。イーシュも彼女に倣い、小瓶の蓋を開け、中に入っていたものにぎょっとした。中に入っていたどろりとした液体は濁った紫色でぶくぶくと泡立っており、不自然に甘ったるい匂いが漂っている。

 薬の知識があるリスルが飲んだのだから身体に害はないはずだと思い、恐る恐るイーシュは小瓶に口をつけた。喉に焼けるような熱さを感じ、鼻を甘ったるい匂いが突き抜けていく。どうにか液体を飲み下すと、何種類もブレンドされた薬草が悪い相乗効果を起こしているのか、今度は独特な香りが食道を逆流してくる。

「俺を殺す気ですか……?」

 恨みがましい目でレイモンに突き刺さるような視線を送ると、彼は苦笑しながら、薬について説明してくれた。

「お二人とも、全身傷だらけの上にかなりお疲れのようでしたから、これは教会秘伝のちょっとした栄養剤です。味はまあ……良薬口に苦しと言いますし……」

「何これ無理……不味すぎて死にそう……」

 げっそりとした様子で栄養剤だという液体が入っていた小瓶をイーシュはレイモンへと返した。

「この薬は一日三回摂取することでだんだん効いてくるはずですし、また作って持ってきますね」

「もう持ってこなくていい……」

 げんなりとした様子のイーシュに対し、意に介したふうもなくレイモンは完全にその言葉を聞き流す。後でまた食器を取りに来ますねと言うと、レイモンはアイリスを伴って、降りてきた石段を登っていき、姿を消した。

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